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舞台「建築家とアッシリア皇帝」 [舞台]

「建築家とアッシリア皇帝」シアタートラム
   観劇日 ・ 11/22(火)

[ ストーリー ]
絶海の孤島に墜落した飛行機から現れた男は自らを皇帝(岡本健一)と名乗り、島に先住する一人の男を建築家(成河)と名付けて、近代文明の洗礼と教育を施そうとする。


[ 感 想 ]
 伸びやかに自由に、そして転換していく話。伝える能力の高さ。常識など打ち捨てて、飛翔していく魂。

 観ながら感じていたのは二人の役者は自在に境界線を突破するということだった。
作品全体が大人のごっこ遊び的なものなのだが、これって台詞? あまりにも自然に、あまりにもアドリブを越えたように発せられる会話。いったいなんなんだろう?
 今とリンクしている単語がポンポンと出てきて、あまりの時間差のなさに驚く。
古い原作を読んだときには退屈するかと思えたのだが、内容も一部変えられ、芸達者な役者の力量で客席を飽きさせない。
その分、二人の役者は忙しく動きまわる。

 自分はアッシリア皇帝だと主張する男の壮大な自慢話と、なぜかママごっこ。
一方、建築家と呼ばれている男は昼間に夜を呼んだり、山をどかしたり、動物に何かを持ってくるように命じたりと、不思議な存在だ。
父親も母親も人間ではないらしく、年は1500歳とか2000歳だとか言っている。本当かどうかは不明。
 建築家はカヌーを作って他の島へ行くと言って皇帝を置き去りにして行ってしまう。
しばらくして建築家は戻ってくるのだが、ここからはじまる裁判官と仮面を使った皇帝の現実の姿のあぶり出しが見事だ。

 ふたりにとっては男だろうが女だろうが、支配者と被支配者、神でさえもどうでもいいようだ。こだわりがなく、ごっこ遊びの役も瞬時に変わる。
 世の中のすべての境目を軽々と飛び越えて、愛し合い、理解し合っている。
なぜか、わたしは観劇しながら『魂』ということを思った。

 ラストの入れ替わりは果たして? 大元の役さえもごっこ遊びで、それが延々と続いていくのだろうか。
 そう考えてしまうと、この島は本当に存在しているのか? この話は本当なのか? なにもかもを煙に巻いて続いていくようだ。

                      ☆

 見終わって改めて美術の秀逸さを感じた。通常は舞台を隠すように張られる幕というのが、今回の公演では向こうが透ける紗のような素材に手書きで絵が描かれていて、中央には洞のある巨木があって上部が舞台の本物の木と繋がっていた。
 この作品自体がこのような薄い膜を隔てた現実なのか、男の妄想なのか、それともすべてが存在しない幻想なのか、観る者は惑わされてしまう。
それをこの幕でうまく表されていたように思う。
 幕が上がると盛り上がった土台。そこに見えないが何カ所か半地下が存在する。段ボール、何かが入っている黒いビニール袋がたくさん脇に置かれていて、段ボールの破片がそこら中に散乱している。
 二人の役者たちはこの平面と、そして上にも下にもある空間を立体的に動きまわる。演出はこの半地下の空間をうまく使いこなしていた。
 段ボールは椅子になったり、棒を差し込みそこに仮面を飾ったり、皇帝の衣装を着せてみたり、よく考えられた小道具だ。
 皇帝を食べるシーンではグロテスクさを極力排除した演出に細やかさを感じた。

 岡本は途中の一人芝居の長丁場を飽きさせず、安定した演技力を発揮する。
何役もこなしながら、とりとめのない一人遊びが続いていく。長い長い台詞。内容があるのかないのかわからない事柄が語られていく。修道女が出てきたり、宇宙人の話が始まったり、もうめちゃくちゃ。
 けれどそこから浮かび上がってくる皇帝の真の姿らしきもの。世の中の深層をのぞいているような気にもなった。
 建築家のいなくなった空虚と、母への愛と憎しみ、アッシリア皇帝という欺瞞、神への冒涜、そして内面に潜むもの。
 2幕、偉ぶっていた皇帝から裁かれる者へと変化していくのだが、仮面を付け替えての証言者としてくるくると変わる演技もいい。

 一方の成河は建築家の存在自体が何者なのかと疑念を生じさせる溌剌とした演技で、舞台上を動きまわる。少年のような妖精のような身軽さで、建築家はやはり人間ではない気がしてくる。
 ほがらかで、人を食ったような演技が客席をなごませてくれた。



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